Blogとマスメディア(あるいは、ネットは新聞を殺すのか?)

2005-03-05 - 九尾のネコ鞭
切り込み隊長に物申す : ネットは新聞を殺すのかblog
上のエントリーを読んでちょっと考えました。(僕が考えるのはいつも「ちょっと」です。数分で考えて、書きなぐってます。だから、いつもいい加減・・・)
ネット時代において、ニュース(あるいはマスメディア)が「公共」であるべき部分というのは、「事実を速報する」ところと「事実を記録する」ところの2点に限られるのではないかと思うのです。公平な観点から「事実を速報する」ことは、大きな資本と組織が必要であり、特定の思想に依拠しない第3者的な立場が必要です。また、ネット社会の基本的な機能であるリンクや引用を行うためには、永続的に「事実を記録する」ニュース・ストレージが必要です。現在は「コピペ」を使うことで「削除」に対抗することが行われていますが、すべてをコピペによって保存することができないことと、著作権の問題とがあることで不完全です。そして、「事実を記録する」ためのストレージを提供することは、大きな資本と設備が必要であり、特定の思想によって記録を制限しない態度が必要です。これらは、すべて、経済学で言うところの「公共財」にあたるのではないかと思います。
それに対して、ニュースに対する「解釈」はどうでしょうか? 僕は「解釈」は「公共」ではないと思う。特定の思想に依拠しない第3者的な立場で解釈を行うということは、論理的に矛盾しているのではないかと思うからです。「解釈=ジャーナリズム(*1)」であるならば、それは「公共」ではありえないのではないかと思います。むしろ、公共ではないと言い切ってしまうほうが潔い態度に思います。ネット時代以前ならば、解釈を報道することができる立場が限られていたので、そこに公共性や職業倫理を持ち込むことは必要だったと思いますが、ネット時代になった今では、解釈を報道することは誰にでもできるのであって、一部の解釈にのみ公共性を認めることは、一種の既得権に近いものになりつつあるのではないでしょうか?
ただし、ネット時代になった今、誰でも解釈を報道できるとは書きましたが、実際には、今現在はその過渡期であって、まだマスメディアの力とネットの力には大きな差があり、差がある間はマスメディアの「解釈」の公共性が問われることはあると思います。しかし、それは、いずれにしても旧世代の価値観に過ぎず、時代の変化とともに失われるべき価値観ではないかと思うのです。
ところで、今回のニッポン放送に関するブームで、Blogの力の向上を体感したように思います。マスメディアから得られる情報の何倍もの情報と分析をBlogから得ることができたのは、僕の理解の中で、Blogの将来性についての考え方が大きく前進したように思います。


*1 そもそも、journalとは「日記をつける」とか「定期刊行物」という意味なんですよね。だから、ジャーナリズムとは、「事実を記録する」ことがその本質ではないかと、僕は理解しているのですが、それは一般的な理解とは違うのかなと思います。つまり「解釈=ジャーナリズム」の方が、一般的な理解かなと。