命とか

こういうところ、突っ込まない方が身のためだとは思うのだけれど、GWだし暇なので気になって。
朝日新聞社説「こどもの日に―白鳥も君も同じ命なのに」 ← 明日には内容が変わってるはずだけど、白鳥と黒鳥が死んでいた件です。

少年たちも幼いころ、生きた動物や昆虫に興味を抱き、飽かずに眺めた時期があったはずだ。生きるものの不思議さ、愛らしさに、目を輝かせもしただろう。そんな思いをいつしか忘れてしまったとすれば、なぜなのか。
まるでゲームをするかのような感覚だったのだろうか。
だが、あと少しの想像力があれば、こうはならなかったと思いたい。ハクチョウにも命があり、懸命に生きていることに思いを至らせる。殴られた時の鳥の痛みに、ほんの一瞬でも想像を及ぼしてみる。そうすれば、棒を振り下ろしたりはしなかったろう。

私は生まれは田園風景広がる田舎で自転車で30分から1時間も走れば海にも山にも行けるという極めて恵まれた(?)地域で育ったのだけれども、その時の記憶からすると、子供っていうのは生き物を虐待する習性があるような気がするのだ。
私自身、手のひらサイズの虫や魚を何匹拉致して監禁して殺したか覚えていないほどだ。たぶん、田舎育ちの人(特に男性)ならみんなそうなのではないかと思う。特に、珍しい生き物を見つけたら、それを拉致・監禁して弄ぶことしか考えなかったのじゃないかな?場合によってはその詳細な経緯を日記にまとめて学校で発表する(夏休みの自由研究)と褒められたのではなかった?
さらに、子供のころに聞いた親や祖父母の子供の時代の武勇伝はもっとすごかったような記憶が。かえるふうせんとかその頃聞いた話だったんじゃないかな(よく覚えていないけど)。
こういうのを思うと、猫が弱った鼠で遊ぶという話を連想するのだよね(うちの猫は都会猫なので、鼠なんて見たことないですが)。子供が生き物に触れて自然を体感するプロセスって、一種の残酷さを伴うのかなぁと。
もちろん、大人になるにつれてこういう残酷さは徐々に失われていくのが普通で、生き物を無闇に傷つけて楽しむような感性は、成人したとはほとんど残っていないのが普通だったり、あるいは一種の儀式となって細かく決められたルールに則って行うようになったりするものだと思うけど。

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何が言いたいかというと、子供にとって生き物を虐待するという行為は極めて普通の感性によるものなのに、それに対して非人間的行為として強く批判することは、子供の心に深い傷を残す「残虐行為」なんじゃないかなぁと思うのです。

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あと、それから、大人でも、蚊とか蝿とかゴキブリとか蜘蛛とか、なんの迷惑もかけていないけれど簡単に殺すよね。あるいは森を切り開いて農地や宅地に変えるよね。肉食べるよね。
私の貧弱な想像力では、白鳥の感じる痛みとゴキブリの感じる痛みの差がよくわからない。だって、ゴキブリは全身つぶれるんだよ?(白鳥を殺していいって言っているのではなくって、想像力でどうなる問題ではないということを言いたい)
これを理想論という人は、「ジャイナ教」を実践している人がいるっていうことについて考えてみてもいいと思う。